昭和の忘れもの。

1960年生まれの青ん坊語り。

成人の日。

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以前に「元服」と言うことについて書いたことがある。

昔は、15歳で元服という時代があった。

 

仮に [元服=社会人として一人前] と言うことであるならば、

今の時代は元服は30歳くらいなのではないか?と言ったふうなことを書いた。

 

平成生まれという区切りが正しいかどうかは別として。

 

20歳前後で社会に出て働きだした若者が「自分の将来について深く考える機会が少ない」ように思える。おそらくそれは「物質的な豊かさ」とか「社会保障」とか原因はいろいろとあって、単純に「考える必要がないのかな?」と思うのである。

 

昭和の時代には、アルバイトであっても労働の対価として報酬をもらうときに、「お金をかせぐこととは何なのか?」と自分に問いかけている若者が多かったと思う。

 

その答えは初めは個人的なこと、自分の生活のことに始まり、次第に社会的なこと、近い将来のこと、親のこと、結婚のこと、自分が築く家庭について・・・などなど、、いろんなことを考えたでしょう。いや、考えさせられた。考えざるを得なかったのではないか?と思う。

 

わかりやすく例をあげれば。

 

親元に住んでいる19歳のA君が短期のアルバイトをした。7日ほど働いて5万円が手元にきた。その5万円でゲーム機とゲームソフトを買った。残りはほとんどないけれど、楽しいゲームをしている若者がいたとして。

この子が「アルバイトをし始めた時から、ゲームをしている時」までの間に、

自分の生活の今と未来について考えることがほとんどない。なぜなら5万円の給料のうちのほとんどを自分の娯楽に使える子には“考える必要”がない。

 

同じ19歳でも震災で家族を失った若者B君で考えてみる。

B君は大学に通いながら夜は知り合いの飲食店でアルバイトを始めた。1ヶ月後に8万円が手元にきた。彼はまず初めにお金の用途について優先順位を考えるだろう。自分の生活1ヶ月にどれだけお金がかかるのか?から計算をして、これからどれだけお金がかかるか?当然考えるだろう。たとえ答えが明瞭に出なくとも。そして、この先大学に通い続けることの意味と、大学を辞めることの意味も考えるだろう。そして来月の生活のことも、その先にある将来についても考えることだろう。

 

なぜならB君には考える必要があるから。

 

必要は発明の母なんて言葉もある。もしかしたら「生活の中の不安は、考えることの母」かもしれない。

自分と自分の生活について考える。家族について考える。将来の自分についても考える。そして考えることは人を成長させる。

 

新成人のみなさん、おめでとうございます。

 

多くを考える必要なく今日を迎えた方は、どれだけ幸せに育ったか?振り返って考えてみてほしい。ピンとこなくても。幸せが何だか?わからなくとも。

そして多くのことを考える必要に迫られ、今日の式を迎えた方は、それだけ幸せに近づいていると思っていいと思う。

 

私自身、自分のことについて考え始めた時期は遅い。

正直30代半ばからだと思う。だけど、幸せに向かうことがどういうことなのか?50を過ぎてやっとわかってきた。

 

だからこそ、新成人のみなさんには、(すでに成人されている方でも)成人の日が来るのを機会に自ら、自分のことから順にまわりのことを考えていってほしいと思う。