昭和の忘れもの。

1960年生まれの青ん坊語り。

お金の話

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中学くらいから30代の半ば過ぎくらいまで「お金があればうまくいく」「お金がないからうまくいかない」そんなことをよく考えた。正直平均的な家庭よりは、貧しい家で育った私にはいつもそんなことが頭の片隅から離れていなかったと思う。

お金で幸せは買えるなんて思っちゃいなかったけど、「お金があれば自由な時間がもっと持てる」とか「お金がないから、ガマンばっかりで、喧嘩がおきるんだ」なんて思ってた時期は長い。

正直30半ばで転職してから、転職前の年収の半分を超えたことはない。

だけど転職前よりも間違いなく幸せな生活を送っている。
やせがまん?などと言う無かれ。

幸せは「なる」ものじゃなくて。「幸せだ」と感じる心を持つことがまさに幸せなのだ、、と気がつくのに悲しいかな40年以上かかった。言うなればお金はそのためのひとつのツールでしかない。なんて思う。

 

その昔、親友に
「金が余ったときに、その金をどう使うか?で人間の大きさが決まる」と言われたことがある。

「あぁ、、確かに宝くじ当たって身をくずすヤツは少なくないって聞くしね」なんて会話した。
そうしたらヤツは本気モードになって
「そうじゃないよ。1万財布に余ってても、100万余ってても、1億余ってても、もちろん100億余ってても、その金を何に使うか?どう使うか?もしくはその時は使わないのか?でその人の器が決まるって話だよ」
と熱くなった。

 

そうか。そうだよな。

仮に3億当たったとして、自分が欲しかったものなんて半分も使わずにほぼそろう。
親孝行もできるだろう。家族サービスで旅行もいけるだろう。郊外だったら2世帯住宅だって買える。で余ったお金。どうするか?だよな。

 

自分がの中心だとして、まずは円の中心で消費をする。
それからその円の周りへ意思が向かう。親・家族・近隣の人・地元地域・・とだんだんと円は広がっていく。(円=¥ではないですよw)

 

いびつになっている円の足りないものを埋めるために使うのか?
もしくは満たされている円の一部分をさらに伸ばす(発展させる)ことに使うのか?

 

どこまで半径を伸ばして考えて、実践するか?で人間の器が決まるんだろうな。

オレには余っている金は無いけれど、少なくともこれからの子どもたちの教育にかかわることに使いたい。

石を投げてくる相手に石を投げ返さないで話をする子どもを育てたい。ひとりでもふたりでも。
ましてや、石を鋭利に加工したり、その石を売るような子どもにならないように育てたい。

 

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FBにて下のリンク記事を紹介している友がいた。

 貧困の子が”税制上も不利”の不思議 (湯浅誠) - 個人 - Yahoo!ニュース

確かに税制も考えないといけない。


今の税制はいろんな面で今の日本に合っていないというのが率直な感想。

もう少し噛み砕いて言えば「今の日本が次の日本になるのにどう経済をまわすのか?」を考えて作られていない。

税務署やその方向を示唆する政治家たちに訊けば、おそらく「大きなお金が動くときは原則何にでも税金はかけるが、たまたま親子孫間の教育資金の支援というものには特別の措置をしているだけ」なんて話なんだろうけど、それが時代にマッチしていない。

 

つまり、この記事に出てくるステキな足長おばさんは先に書いたが人より大きいんだけど、実はそのくらい大きな円を想像できる(実践しようと考える)人は世の中にまだまだいるってこと。

 

そのうち支援とか寄付とかが「よくある話(当たり前)になってニュースにならないほどになってくれる日本を想像してほしい。まぁ・・それを想定できない行政の連中は円の半径が短いってことなのかなぁと。。