思いつきながら、ニーチェ君が言ってた言葉になぞって自分のギター暦を振り返っている。
①はこちら。
【獅子の時代】
何をやっていくにも、初心者から中級者になれば、その技がまだ完成していなくとも鼓舞したくなるもの。
さてさて、大学の学祭では貴重な経験をした。
時代は1980年ころ。
学園祭でコピーバンドと言えばストーンズ、パープル、ツェッペリンが主流だったが、時代の流れでパンク、テクノ、ニューウェーブ、クロスオーバーといろんなバンドが出てきた時代。
そんな中、私はジェネシス、UK、EL&P、YESなどのプログレ系のバンドをコピーしていた。
曲の中に変拍子(7/8拍子とか15/16拍子とか・・)があり、曲の尺が長い。当然曲の展開もいろいろと覚えないえればならない。
ところが難しいことにトライしている(自己)満足感、それがバンドとして出来上がってくるときの充足感は非常に大きかった。
3分の曲を5曲もやるより、15分の曲をやる方が大変だけど楽しい。どこか本人たちの中に優越感があった。ところが、いざそれを学園祭でやると、目の前のお客さんはみるみるいなくなってほぼゼロ。見ていたのは同じサークルの同じ趣味の3人ほど。
難解な曲。変拍子、長いイントロ、暗く悲しい和音の連続。それでいて、演奏も歌もたいしてうまくない。言うなれば男5人でマスターベーションをしているさまをお客さんに見せていたようなものだった。(学園祭なのでお客さんと言っても無料だけど)
U.K. - Night After Night (live 1979) Good Audio!
※↑比較的短くて聞きやすいけど演奏は難しいし、素人がやって、歌に魅力がないと「変な曲」で片付けられてしまう。
まぁ学園祭で披露ってのは、ひとつ勝負に出たが完敗した気分だった。
簡潔に言えば素人が弾くものじゃないと痛感した。
その後プログレバンド脱退して、「ウケる曲をやりたい」「背伸びした選曲はやめよう」って曲をやるようになった。
結局プログレ大好きだけど、「好きな曲と、人前で演奏する曲は別で考ないとマスターベーションになっちゃう」って事がわかった。だからひたすら楽しいロックをやった。
結果はとても盛り上がってそれは楽しい学園祭を過ごした(苦笑)
でも“ナマイキになってチャレンジ”ってのは大事で、貴重な経験だった。
ある意味ラクダの時代の終わりが見えてきたんだと思う。
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【これがギターじゃなくて武道だと?】
仮に【ラクダ-獅子-こども】の3つを剣の道に例えたなら。
【ラクダ】→素振り、乱取りなどの稽古(入門者~初心者)
【獅 子】→演舞披露、他流試合、時代が時代なら試し斬り?(中級者)
【こども】→剣の求道。(上級者)
この上級者になる過程には、必ず自分との対峙がある。それが自分の流儀の開花となるんだろうし、そうなっていかないと成長は無い。
かの宮本武蔵で言うなら獅子の時代に巌流島で決闘をしたあたりかな?
そして晩年になって自分の影(自分という既成概念)を斬ったという逸話こそ【こどもの域】に到達したということかもしれない。
(ちょっと重いかw)
もちろんニーチェが武道をどうこうしたわけではないけれど、通じるものはある。
言葉遊び的に書くと、ニーチェのは「達人」じゃなくて「超人」だから。
さらに言えば歌やギターは「剣豪のように人を斬る」わけではないから、みんなに拍手をされて賞賛されることが多く、やってる側はとてもうれしい。
そういう意味では武道と芸術は近いと思う。
修行→会得→修行→会得・・を繰り返して、大きくなる。そして自分の技をもって人を倒す(圧倒する)ことを覚え、さらに強い相手を求めていく。
昔見た時代劇のドラマで「ええい、もっと腕のたつものはおらぬのか!」なんてセリフの道場破りの場面。
もしくは「おぬしの殺気ただものではない。。」と言いながら刀を抜いて斬りかかる場面。
そう。ラクダからライオンになったばかりはひたすら腕試しをしたいのね。。
もちろん自分が傷つくこともあり、次の壁の大きさを知る。また先人の偉大さにも気づく。その中であらためて自分と向き合って「自由」になっていく。その自由の中から創造がうまれていく。
悲しいことに向上心がある者は自分の欠点を克服したいと思う一方で、その劣等感から抜け出せずにもがく。これが実はいちばんのエネルギー源であり、ときにカンフル剤でもある。
剣道だと重いけど、、女子高生が「あれ?最近アタシの可愛さで男たちがイチコロ?」みたいな感覚も同じようなものかもしれない。
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その後の私はと言うと。
大学を出て社会人となり。時代はバブル。元々素人の集まりだったバンド仲間はバラバラになって、バンド活動はだんだんフェイドアウトしていった。
続く。